前回は、「偉大なる凡人にしかできない役割」として、
天才や秀才の「痛みを理解し、支える存在」になることの大切さを、
藤井聡太さんの師匠・杉本昌隆さんを例にご紹介しました。
今回は、このシリーズの最終回として、
「偉大なる凡人」という生き方が、私たち一人ひとりの“幸せ”や“ライフワーク”にどうつながっていくのかを考察していきます。
「偉大なる凡人」と言う最高の生き方は誰でも目指せる!

「偉大なる凡人」という生き方の最大の魅力は、誰でも目指せるということです。
一流の教師、地域に根ざしたリーダー、我が子を愛情深く育む保護者・・・
私たちの身近にも、誰かを支え、導き、勇気を与える「偉大なる凡人」が数多く存在しています。
特別な肩書きがなくても、自分の人生に誇りを持ち、人の役に立つことに喜びを見いだす人。
そうした人々がいるからこそ、天才も秀才も、その才能を思い切り伸ばすことができるのです。
例えば、当たり前ですが大谷翔平選手のような世界的な偉人も、彼ひとりの力であそこまでの選手に成長できたわけではない。
- 野球の楽しさと基礎を教えてくれたお父さん
- 無償の愛で見守り続けたお母さん
- いつも自然体で寄り添ってくれた兄と姉
- 人間力を育ててくれた花巻東高校の佐々木監督
- “二刀流”という可能性を本気で信じた栗山監督
- 彼の挑戦を妬まず、見守り続けたチームメイトたち
こうした人々がいたからこそ、大谷翔平という“天才”は自由に才能を伸ばし、世界に羽ばたくことができたのです。
自分が輝くことだけが人生ではない。
誰かを輝かせることで、自分自身の人生が輝くこともある。
「偉大なる凡人」としての生き様を目指すことは、誰でも、いつからでもできるのです。
何かに本気になれる人しか、偉大なる凡人にはなれない。

“なんとなく生きてきた人”は、絶対に偉大なる凡人になれません。
偉大なる凡人とは、何か一つのことに本気で打ち込んだ経験があり、数え切れない失敗や挫折を乗り越えてきた人だけが辿り着ける境地です。
なぜなら――
自身が本気で取り組んだことがあるからこそ、同じ分野にいる“天才”の持つ才能の豊かさに、心から気づくことができる。
そして、自分自身も数々の失敗や挫折を経験してきたからこそ、本気で努力する人の苦しさや孤独に、心から共感することができるのです。
たとえば、トップアスリートの親御さんには、自身もかつて国体選手だったり、若い頃に同じ競技へ真剣に打ち込んだ経験を持つ人が少なくありません。
たとえ自らの挑戦が思うように実らなかったとしても、自分に嘘をつかず、やりきったその時間が、次世代を支える礎となって受け継がれていくのです。
これはスポーツに限った話ではありません。
前回紹介した杉本昌隆八段も、一見すると“天才”に見えるかもしれません。
しかし、将棋の世界にはさらに上がいて、彼自身も「越えられない壁」をいくつも体験してきたはずです。
あなたも、これまでの人生で「こいつには逆立ちしても勝てない」と思わされた相手が一人や二人はいたのではないでしょうか?
実は、プロの世界でも私たちの日常でも、
自分よりも才能あふれる人との出会いに葛藤する経験は、本質的には変わらないのです。
それでも杉本師匠は、競争の中で「人間力」を磨き続けました。
だからこそ、藤井聡太さんの類まれな才能に気づき、それを伸ばすことができたのです。
その他にも、自分自身はごく普通の女の子だったとしても――
自分自身はごく普通の女の子だったとしても、
母親となり、娘のピアノやバレエのレッスンに、送迎から付き添い、衣装づくりまで全力で向き合い、支え続ける。
その「愛の奉仕」によって、初めて子どもの芸術の才能は花開いていくのです。
凡人の人生には、本気で努力しても報われないことの方が、むしろ多いのかもしれません。
でも、涙が枯れるほどの悔しさと向き合った経験こそが、やがて誰かの背中をそっと支える力になるのです。
偉大なる凡人は、確かに誰でも目指すことができる。
でも、「本気になったことがある人」だけが到達できる場所でもあるのです。
まとめ 才能には優劣があるのではなく、果たす役割が違うだけ

どうしても、世の中では「天才」や「秀才」がもてはやされがちです。テレビやSNSでも、スポットライトを浴びるのは特別な才能を持った人たちばかり。
その一方で、「凡人」と呼ばれる人々は、取るに足らない存在かのように見られてしまうことがあります。
実際、私自身も長いあいだ、そんな思い込みに苦しんできました。
アドラー心理学には、「普通である勇気」という有名な言葉があります。でも当時の私には、それがただの綺麗事にしか聞こえませんでした。
「何者かにならないと、価値ある人生なんて送れないのではないか?」
「凡人のまま生きる人生に何の価値があるのだろうか?」
――そう感じていたのです。
凡人である自分を認めることができず、いつも心の中にモヤモヤや、特別な才能のない自分への無力感のようなものがありました。
しかし、人生の中で出会った人々や、数々の学びを通じて、ようやく「普通であることの勇気」の真意がわかってきました。
「才能には優劣があるのではなく、果たす役割が違うだけ」ということ。
天才・秀才・凡人のあいだには、確かに才能レベルの差はあります。
ですが、それは役割の「分担」であり、決して「序列」ではないということです。
3つの才能が、それぞれの強みを活かし合い、補い合うとき――はじめて、組織も、社会も、世界も、本当の意味で前に進んでいけるのです。
今の時代は、SNSの発展によって、誰もが「何者かにならないといけない」という強迫観念にとらわれやすくなっています。
特に私のような凡人レベルの才能しかないと、何者でもない自分を呪い、生きている意味や価値を見失いやすくなるかもしれません。
そんな今の時代だからこそ!!
「偉大なる凡人」の価値を、一人でも多くの人に知って欲しいと心から願っております。
ー完ー
