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夢を叶えるコツ〜夢と執着の違いを明確にする③〜

前回は、夢を叶えるコツ②ということで、「執着」の状態から抜け出すためには、どうすれば良いのかということを掘り下げました。

前回は、執着の状態にならないようにするために、夢を抱くことと同じくらい、夢は完結させることも重要であることをお伝えしました。

今回は、その大切さを偉人の例をもとに考察したいと思います。


「偉人」でも才能が足りずに諦めた夢がある

「あの人には、どうしても勝てない…」

そんな思いを抱いたことはありませんか?

必死で頑張っても、どうしても越えられない壁。

才能の差を感じて、夢を諦めてしまった経験。

誰もが一度は通る道だと思います。

でも、実はこの経験、私たちのような普通の人だけのものではありません。 歴史に名を残す偉人たちも、同じように「才能の壁」に直面し、諦めざるを得ない夢があったのです。

ここで、そんな偉人たちの意外な挫折エピソードを2つご紹介したいと思います。


CASE1 アマゾン創始者 ジェフ・ベゾス

以下、ジェフ・ベゾス『Invent & Wander』からの抜粋です。

ヨサンタという天才的な友人

私はアルバカーキで生まれ、3歳か4歳のときにテキサスに引っ越し、その後フロリダ州マイアミの高校に通った。マイアミ・パルメット高校というその大規模公立校を卒業したのは1982年のことだ(頑張れ、パンサーズ!)。同級生の数は750人。高校は大好きだった。毎日楽しかった。笑い声が大きすぎて、図書館に出入り禁止になったりもした。

生まれてこの方、ずっとこの笑い方だ。弟と妹は私の笑い声が恥ずかしすぎると言って、何年間も私と一緒に映画を見にいくのを嫌がっていた。どうしてこんな笑い方になったのかわからない。生まれつき笑い上戸なのだ。母や私をよく知る人はみんな、「ジェフは悲しそうにしていても、5分もすればすぐ機嫌が直る」と言う。生まれつきセロトニンの分泌が多いとか、そういうことなのかもしれない。

私は理論物理学者になりたかったので、プリンストン大学に行った。成績はとてもよく、ほとんどの課目でA+をもらった。物理学の優等コースに入ったが、学期のはじめに100人いた学生が、量子力学に入るころには30人くらいになっていた。そんなわけで、3年生のころに量子力学を専攻しはじめ、同時にコンピュータサイエンスと電気工学の授業も取り、そちらも楽しんでいた。ただ、偏微分方程式のある難問がどうしても解けずに困っていた。

ルームメイトのジョーも数学が得意で、ずっと一緒に勉強していた。二人でその難しい課題に3時間も取り組んだのに、まったく糸口が掴めない。机から顔を上げ、お互いに目を見合わせて、同時に「ヨサンタ」とつぶやいた。

ヨサンタはプリンストンでいちばん頭のいい学生だった。二人でヨサンタの部屋に行った。ヨサンタはスリランカ人だ。スリランカでは国に貢献をするたびに名前に音節が加えられるのか、フェイスブック──といっても、当時は紙の本だった──に載った彼の名は延々と3行にもわたっていた。彼はものすごく長い姓を持つ、誰よりも謙虚で立派な男だった。

ヨサンタにその難問を見せると、しばらくじっと見つめてから「コサイン」と言った。わけがわからず「どういうこと?」と聞くと、「それが答えだ」と言う。

「え、それだけ?」と聞くと、「ああ、説明するよ」とヨサンタは言って、私たちを座らせた。それから3ページにわたって詳細に代数を書き連ねた。すべてが相殺され、残った答えはコサインだった。

「全部頭の中でやったの!?」と聞くと、「まさか、それは無理だよ。3年前に似たような問題を解いたから、そのときの解き方を重ねてみたら、すぐにコサインだってわかったんだ」

私にとって、それは人生が変わった瞬間だった。そのとき、自分は偉大な理論物理学者にはなれないと気づき、それから自分探しがはじまったからだ。

たいていの職業なら上位1割以内に入っていれば、何らかの役に立てる。でも、理論物理学では、世界でトップの50人に入っていなければ、何の貢献もできない。それははっきりしていた。この世界で先がないと思った私はすぐに専攻を変え、電気工学とコンピュータサイエンスを勉強することにした。


2、山中伸弥(IPS細胞研究)

山中伸弥先生は、整形外科医になりたいと夢を見て努力を重ねていました。神戸大学医学部を卒業後、当時国立大阪と呼ばれていた病院の研修医となりました。しかし、その研修医時代に夢が破れる経験をしています。

以下、山中先生が高校生に向けて語った講演会からの抜粋です。

参考リンク https://logmi.jp/knowledge_culture/speech/37151


整形外科医での挫折、そして研究の道へ

研修医として、実際働きだすと、研修ですから上の先生に教えてもらうんですが、この世の物とは思えないくらい怖い先生が待ち受けていまして。

僕もずっと柔道とか、大学ではラグビーをしていまして、体育会の柔道部で柔道をしていましたから、上下関係とか先輩、先生が怖いというのにはそれなりに慣れているつもりだったんですけど、そんなのに比較にならないくらい怖い。

鬼のような教員、教官が僕を待ち構えていまして、ビシバシと鍛えてもらったんです。僕は山中という名前ですけど、その先生には「山中」と呼んでもらえませんでした。

2年間のトレーニングでなんといわれていたかというと「ジャマナカ」と呼ばれていました。お前はほんま邪魔や、「ジャマナカ」め、と言われていました。

しかも残念ながら、整形外科は外科で手術をするのが主な仕事なんですけど、少しですけど手術をさせてもらうと、どうもうまいこといかない。他の人がやっていると簡単そうに見える手術が、僕がやるとなんかうまいこといかない。

うまい先生がやると20分くらいで終わる手術が、僕がやると2時間かかると。

そうういこともあって、だんだん自分は整形外科としては向いていないんじゃないかと。高校の時からずっと整形外科医になりたくて、大学の間も僕は整形外科医になる為に医学部に入ったんだと、他の授業はサボっても整形外科の時間だけは1番前に行って聞いていたのに。

ようやく念願かなって整形外科のトレーニングを始めたんですけど、ちょっと大変な目にあうと、意気地がないといいますか、逃げたくなって。

で、選んだ道が、臨床。患者さんを見るのは僕は向いていないかもしれない、一度研究をやってみようということで、大学院に入りなおしました。


ずっと夢だった整形外科医の仕事が、自分に向いていなかったという絶望的な経験。しかし、子供の夢にしっかりとけじめをつけ、ここから山中先生の躍進が始まります。

山中先生は臨床医としての限界を感じる一方で、医学研究に強い興味を持っていることに気づきます。特に、基礎研究の論文を読むことに没頭する自分を発見し、「実験をしているときの方が、手術をしているときよりもずっと楽しい」という実感を得たと語っています。

この気づきを経て、大阪市立大学大学院に進学し、基礎研究の道へと転身。その後:

2006年:マウスでiPS細胞の作製に成功

2012年:ノーベル生理学・医学賞受賞

という大きな成果を上げることになります。

山中先生は後に、「整形外科医として挫折したことは、人生における大きな転機でした。もし私が手術が上手かったら、今日のような研究者にはなれなかったかもしれません」と振り返っています。


諦めなければ夢は叶う!の本当の意味は一つの夢に固執することではない

ベゾス氏と山中先生、この二人のエピソードは、才能の壁に直面し心が折れそうになる時に、私の大きな心の支えとなっています。総資産30兆円を超える世界的な経営者も、ノーベル賞受賞者も、情熱を傾け、長年本気で取り組んでも叶わなかった夢があったのです。

偉人でさえそうなのですから、夢が叶わないことは決して特別なことではありません。むしろ、成功者と呼ばれる人々に共通しているのは、叶わなかった夢を引きずることなく、次の一歩を踏み出す決断力なのです。

その際に重要なポイントは、以下の3つです:

1自分の才能の限界を正直に見つめること

2 向いていないと分かった時に潔く方向転換できる

3 新しい方向性で夢を描き直し、再度全力で追求すること

真の成功者とは、すべての夢を叶える超人的な存在ではありません。実際、打率100%で全ての夢を叶えている人など、どこにもいないのです。

「諦めなければ夢は叶う」という言葉の本質は、一つの夢に固執することではありません。

夢を抱く→100%全力で取り組む→夢を完結させる

このサイクルを恐れることなく回し続けること。それこそが「諦めなければ夢は叶う」の真の意味だと、私は確信しています。


このブログは、

AI時代を生き抜く「自立型人材」を育成する
という私の信念を基に掲載しています。

一人でも多くの人が人間関係や自己実現の悩みが解消されることを願っています!

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